聖書のみことば
2023年4月
  4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月30日主日礼拝音声

 闇の裁判
2023年4月第5主日礼拝 4月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第14章51〜65節

<51節>一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、<52節>亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。<53節>人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。<54節>ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。<55節>祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。<56節>多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。<57節>すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。<58節>「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」<59節>しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。<60節>そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」<61節>しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。<62節>イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」<63節>大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。<64節>諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。<65節>それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

 ただ今、マルコによる福音書14章51節から65節までをご一緒にお聞きしました。
 55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とあります。夜の深い闇の中で、主イエスの命を奪うための裁判が開かれます。形の上では裁判ですが、まったくもって公平なものではありません。主イエスを死刑にするため主イエスにとって不利な証言を出させようとする、最初から結論の決まっている裁判であって、言うなれば、体裁を取り繕うために開かれた、むしろ茶番と言うべきものでした。

 ところがこの夜の裁判は、実際に行ってみると思いがけず難行したのでした。主イエスについての多くの偽証が言い立てられたものの、その偽証が互いに食い違ってしまったためです。ユダヤでは裁判に限らず、確かな事柄は2人または3人の人が一致して同じことを述べた時に、それが真実だと認められました。ところが偽証というのは、そもそもが作り話ですが、その作り話同士が一致しなかったようです。56節に「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」と言われています。
 主イエスを死刑にするという結論が決まっていたにも拘わらず、そのための証言が一致しなかったことは、この裁判についての周到な準備が欠けていたことを表しています。祭司長たちは、まさかこんなにあっけなく主イエスの身柄を取り抑えることができるとは思っていなかったのでした。彼らは前々から何とかして主イエスを捕らえて殺そうと考えてはいましたが、それが実現できるのは、過越の祭りが済んでユダヤ各地からの巡礼の人々がエルサレムを去ってからだろうと予想していたことが、14章1節2節を見ると分かります。主イエスを捕らえて殺そうとしていた人たちは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていました。ところが、思いがけず主イエスが簡単に捕らえられてしまったために、急遽夜の裁判が開かれているのですが、そこでの主イエスについての証言はことごとく食い違いを見せたのでした。

 けれどもその偽証の中には、やや不正確ではあるものの、元々主イエスが確かにおっしゃった言葉を含む証言もありました。57節58節に「すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」とあります。主イエスがおっしゃったことは、御自身が神殿を打ち倒すということではありませんでした。けれども、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出した後に、主イエスは確かに「神殿を三日で建て直す」と言っておられました。このことは、ヨハネによる福音書2章18節19節に記されています。「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」とあります。
 主イエスは、御自身が神殿を打ち倒すとおっしゃったのではありません。「この神殿を壊してみよ」とおっしゃったのでした。この時、人々の目の前にあった石造りの神殿は、その堅牢さによってローマ帝国に立ち向かうことができると考えたユダヤ人たちの傲慢のために、まもなく実際に滅んでしまいます。紀元70年にローマ軍の侵略を受けて、神殿の壁は突き崩され、わずかの壁を残して崩壊してしまうのです。主イエスはまさに、そのことを予言されました。そして、それまで神殿で毎日ささげられていたユダヤ教の礼拝は、この神殿陥落によって途絶えることになり、その後は各地の会堂で守られていた礼拝だけが、ユダヤ教の礼拝として残るようになります。
 しかしその一方で、主イエスは、御自身が十字架にお掛かりになり三日目に復活されることを通して、主イエスを救い主と信じる人たちに新しい礼拝をもたらしてくださいました。主イエスの十字架によって罪が滅ぼされ、人間が神に対して負っている罪の負い目がすっかり清算されて、「神の憐れみと慈しみを受けて生きてよいのだ」という御言葉が語りかけられる、その主の御業を讃美し感謝して生きる、新しい神との交わりが主イエスを通してもたらされたのでした。「三日で建て直される礼拝」とは、その主イエスの御業を信じてささげられる礼拝です。ですから、ヨハネによる福音書2章21節には、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」とあります。私たちが「主イエスは確かに私たちのために十字架にかかり甦られた」と信じ、私たち自身もまた、主の御体の一部とされていることを信じてささげられる礼拝は、今日でもここで捧げられています。そういう礼拝がもたらされることを、主イエスは弟子たちに教えられたのでした。
 ですから、この夜の裁判で主イエスに不利な証言をしようとして、「三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言うのを聞いたと証言した人たちは、部分的にですが、確かに主イエスのおっしゃった言葉に触れて語っているのです。ただしこの場合も、彼らの証言が食い違ったと言われているのは、もともと主イエスの言葉を聞いた時に、彼らが真剣に聞こうとしなかったために、主イエスのおっしゃろうとしたことをきちんと再現できなかったためと思われます。

 けれども、こういうやりとりの言葉を聞きながら不思議に思うことがあります。主イエスがこの言葉をおっしゃったのは、主イエスのなさった「宮清め」と言われる出来事の直後のことでした。主イエスは神殿の境内で両替をする人々の腰掛けや台をひっくり返し、商われていた動物を境内からすっかり追い出して、乱暴狼藉を働かれました。主イエスの言葉を聞いた人たちは、当然その「宮清め」の出来事を目撃していたに違いありません。主イエスを有罪にしたいのであれば、どうしてそのことを持ち出さなかったのでしょうか。それが不思議といえば不思議です。ですがそれは、この夜の裁判が最初から「主イエスを処刑すること」を目的としていたからかも知れません。この裁判は、主イエスの何らかの落ち度を指摘して、ただ有罪にするということが目的ではなかったのです。有罪にできたとしても、それが死刑となる程の重い罪でなければ、主イエスを殺そうとしている人たちにとっては、この裁判の意味はありません。ですから、偽証についても、あれやこれやの落ち度を言い立てるのではなくて、主イエスが死に当たる程の罪を犯したと言わなければならないと思うあまり、却って証言がおかしくなり、食い違ってしまったのでした。

 なかなか主イエスを有罪に定め死刑を言い渡すことができない、そういう時間が続きます。すると、裁判長の席についてい様子を見ていた大祭司カイアファは苛立ちます。彼は本来なら、裁判長席から証言尋問の様子を見守るべき立場でしたが、自ら議場に降りてきて議員たちの真ん中に立ち、主イエスを問い詰めようとしました。60節に「そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』」とあります。「この者たちの証言」というのは、直前の「神殿を破壊し、三日で建て直すと言っているのを聞いた」という証言をさしています。
 しかしこの問いかけに、主イエスは何もお答えになりませんでした。元々が公正公平な裁判ではないからです。裁判長自身が被告席に立たされている主イエスに明らさまな敵意を抱き、自らが議場に降りてきて言葉尻を捉えようと尋問することは、その場面自体が異様です。とてもまともな裁判ではありません。こういう場面では、沈黙するに限ります。下手に何かを答えようものなら、その言葉を本当の意味ではなく、わざとねじ曲げて受け取られ、濡れ衣を着せられて罪をでっちあげられてしまいかねないからです。この場面で不利益を被らないようにするには、黙秘するのが一番です。
 大祭司にもそのことが分かっているので、なお苛立っています。このまま主イエスが沈黙を続けて夜明けを迎えれば、この夜の不当な裁判のことがエルサレム中の人々に知れ渡ることになるでしょう。そうなる前に、何らかの言質をとって主イエスを罪に定めなくてはなりません。しかしこのまま主イエスが黙り続けるなら、もはやお手上げです。偽証は出尽くしていて、それによって罪に定めることはできません。

 大祭司は主イエスを挑発するつもりで、問いを重ねました。61節に「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った」とあります。この大祭司の問いかけは、注意して聞くと、2つの問いが重なっています。「お前はほむべき方の子なのか」という問いと、「お前はメシアなのか」という問いです。そしてこの問いは、どちらにも罠が隠されています。
 最初の「ほむべき方の子」というのは、別に言うと「賛美される方の子」ということを言っています。賛美される方とは神のことですから、これは「おまえは神の子なのか」という問いになります。私たちは皆、神から命を頂いて生まれていますから、神によって創造された者たちとして「神の子ら」と呼ばれることがあるかもしれません。けれどもユダヤの人たちは、神によって造られた者だから神の子だとは言いません。彼らは自分たちのことを「アブラハムの子である」と言い表しました。「神の子」というのは、元々は父と子との深い間柄を持っておられた主イエスにこそ、当てはまる呼び名です。ですから主イエスは、「神の子か」と問われて「そうです」と答えてもよいのです。しかし勿論、大祭司をはじめとしたユダヤ人たちはそのことを知りませんし、認めようとしません。ですから「神の子だ」と主イエスが答えれば、それは、「人間の分を超えた大変傲慢なことを言った」とユダヤ人たちの反発を大いに買うに違いなく、また「神を冒涜した死に値する言葉だ」と取られても仕方ないのです。
 またもう一つの「メシアである」という言葉は、ローマ総督ピラトをはじめとするローマ帝国の当局者を大いに刺激する言葉です。これまでメシアを名乗ってローマ帝国に抵抗する暴動が何度もユダヤには起きています。ですから「ほむべき方の子メシアなのか」という問いかけは、罠に満ちていると言わざるを得ません。「そうだ」と返事をしてしまえば、ユダヤ人たちからは反発を受け、ローマの当局者たちからは大変な危険人物であると思われるに違いないからです。
 主イエスもちろん、このような誘いには乗らず、罠を見抜かれて沈黙なさるに違いないと思うのですが、ところが驚いたことに、まさにこの危険な問いに主イエスは真正面からお答えになりました。それまでずっと沈黙しておられたにも拘わらず、それどころか大祭司がまさに願ったとおりの、「そうです」という答えをなさるのです。62節に「イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る』」とあります。主イエスがお答えになった「そうです」という返事は、英語で言えば「I am」という言葉です。「わたしである。わたしがあなたの言ったとおり、ほむべき方の子でありメシアである」とお答えになりました。
 大祭司は内心驚いたのではないかと思います。あまりにもあっけなく、決定的な問いに対してそれを認め、主イエスが御自身を神の子でありメシアであると肯定なさったからです。小踊りしたい気持ちを抑え、まるで思いがけない告白を聞いたような素振りを装いながら、大祭司は自分の衣を引き裂き叫びました。63節から64節にかけて「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか』」とあります。すると最高法院の議員たちは、こぞって主イエスを死刑にするべきだと言いました。形の上では、彼らの最初の思惑がまんまと実現したように見えます。

 しかし、主イエスはまさに、大祭司がこのように率直な言葉で問いかけるのを待っておられたのかもしれません。主イエスは神の御計画を実現する御子として、まさしく神の子として、そして人々を救いに導く救い主メシアとして、十字架に掛けられて亡くなるのです。主イエスは御自身がそのようにして地上の命を終えることを御承知です。主イエスが死刑に定められるのは、他の理由によってではありません。まさしく主イエスが神の子でありメシアであるので、十字架にお掛かりになります。そしてこの裁判では、その決定的な言葉が大祭司の口から出るまで、主イエスは黙っておられました。大祭司の言葉を待っておられたのです。
 そして、主イエスは更に旧約聖書のダニエル書7章13節の言葉を引用しながら、御自身が何者であるかをはっきりとおっしゃいました。「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」という言葉です。ダニエル書7章は今年の元旦礼拝で聴いた言葉ですが、かいつまんで言いますと、巨大でみにくく恐ろしい4頭の獣が登場します。この獣たちがそれぞれに自己実現を図り、互いに争い合い食い合いながら破壊の限りを尽くす、そういう世界の果てに、なお神がおられることが教えられます。そして神の裁きによって、ある獣は殺され、他の獣は力を奪われた状態で定めの時まで生かされます。そしてその最後に、人の子が天の雲に乗って神の御前に進み出、「権威、王権、栄光」を受け取ることが語られます。
 主イエスが「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われたのは、「ダニエル書に語られている人の子こそがわたしである」とおっしゃっている言葉です。主イエスは今、巨大な獣たちが暴れ、破壊の限りを尽くすそのような地上においでになって、最後に栄光をお受けになる方として、この場所に立っておられます。4頭の獣が好き勝手に振る舞うように、今この夜の時には最高法院の議員たちが主イエスを虐げ、偽りの裁判を開いて主イエスを十字架にかけ、闇に葬り去ろうとしているのです。
 しかし、まさにその主イエスの十字架によって、獣たちの力は奪われ、滅ぼされ、最後に「人の子が栄光を受ける」ということが起こるのです。従って、大祭司が何とかして主イエスを死刑に定め葬り去ろうとしたこの最高法院の裁判の席で、主イエスもまた懸命に、人間の罪という巨大な獣と戦っておられたのです。忍耐して、大祭司の口から「おまえこそが神の子であり、救い主なのか」という決定的な言葉が出てくるのを待っておられました。そして主イエスは、大祭司がそのように問うた時に、「まさしくわたしである」とおっしゃりながら、人間の罪を滅ぼすため、十字架に向かって進んで行かれるのです。

 私たちが今生きているこの世界にも、尚多くの獣が存在しています。疫病があり、戦があり、貧困があり、多くの人々が死んでいきます。そして私たちもまた、一人の例外もなく死の時を迎えるのです。そういう現実が時に牙をむいて私たち自身の上にものしかかってくるように思える時があります。
 けれども、主イエス御自身がそれらの死と戦っておられます。聖書には、人間の死は罪の結果、報いであると言われていますが、主イエスは、御自身の側に人間のすべての罪を引き受け、十字架に向かっていかれます。そして十字架上で苦しみ亡くなられることで、人間の罪は十字架の上ですべて滅ぼされ清算されます。主イエスが復活なさり、私たちに呼びかけてくださるのは、「わたしが十字架にかかってあなたの罪をすべて清算したのだから、あなたは神に愛され慈しまれている者として、ここからもう一度歩んで行ってよいのだ」という約束です。私たちは、人生の中にさまざまな問題を抱えていたとしても、その主の約束に励まされながら信じて生きていく時に、「本当にここで生きてよいのだ」ということを知らされます。主イエスは最後に栄光をお受けになる人の子、勝利者として、私たちの許を訪れてくださるのです。

 私たちは、そういう主イエスに伴われ、主イエスの御言葉に励まされながら、今日を生きるようにされていることを知る者とされたいと願います。
 神の独り子であり救い主である主イエスが、栄光をお受けになる人の子として私たちに伴って下さることを信じて、主を誉め讃えながら、ここから歩み出したいと願います。お祈りをささげましょう。

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